昭和54年6月23日      月次祭



 えー、信心にも、おー、色々ございます。まぁ色々ありますけれども、大体に別けて信心は二筋道と。えー、信心をしておると言うても、その二筋道を歩いておる。
 一方は、おかげを受けるから、信心をしておると言う信心。一方は力を受ける、お徳を受ける事を楽しみに信心をしておると。まぁ信心二筋道。
 ただ今もお祭り前に、福岡の高橋さんが御届けをなさりましたが、あちらに、んー、働いておられる方の娘さんが、いわゆる奇病。えー、まぁ医者や薬では治らんというような病気。お願いをさせて頂いておってもう不思議におかげを頂いた。それだけではございません。この頃私共の主人は、もう必ず、その枕元に一升瓶を置いとかなけらばできないと言うほどしに御酒の強い方であったが。御神米を一粒づつ、頂かせて頂いておりますが、最近ではその御酒を、ね、嫌いになったのかどうか分からんけども、頂かんようになったと。その私がお礼参拝をしたいけれどもと言うて、お初穂やらお供えをことつかって来ております。
 そういうおかげで、またそういうおかげを受けて、日々合楽教会には参拝者が、でにぎあっております。と言うと、又毎日日参を続けさせて頂き、それこそ神様に喜んで頂く信心。とりも直さず、私がおかげを頂く事。私が力を受ける事。お徳を受ける事。あの世この世を通して、幸せになれれる道を体得したい、頂きたいと言うてお参りをして来る人。信心二筋道なんです。
 だから、十年も二十年も信心しておっても、一歩もそのきから出ないという人もあるし、ね、言うなら、あー、たまたま合楽のお話を頂いて、ね、もう真正面から信心に取り組み信心を分からせて頂く事を楽しみに、信心をしておる人がございます。
 はい、もうこれは、えー、皆さんがどう、どちらが本当かと言う事は直ぐ分かった。信心が嬉しゅうて楽しゅうて、しかも愉快にまでなれる、という信心は、やはり自分に力が付いていっておる。これがあの世にも持っていかれるのであろうか、これがこの世にも残しておかれるものであろうと、確信が出来てくる信心。ね、そういう信心を一つ目指したい。又そういう信心に、切り替えて行きたい。
 今日、えー、一時の御祈念に合わせて、今日の、ん、正奉仕の先生が、んー、福岡からお参りをして参ります、ご婦人の所のご主人が、あー、亡くなられて、えー、もう二、三年になりましょうか。あー、その帰幽日に帰幽日にはあー、心を込めてここでお祭りがございます。
 今日も色々お供え取り揃えて、その一時の御祈念に合わせて、え、お祭りをして下さいと言う事である。
 私はここに座らせて頂いて、御祈念をさせて頂いておる、先生は、あー、一生懸命今日は、御霊様の、おー、御祈念をいたしておりました。
 そしたら、神様から頂きます事が、御霊という字を正確にこう、一画一画、一字一字を正確にこう、書いて行くところを頂いた。御霊と言う字を。ね。そして、神様から頂きます事が、ね、真の御霊を目指す、と言う事を頂いたんです。
 はー、私は初めて頂いた。私共信心させて頂く者が真の道を分からせてもらい、真の人を目指して、いうなら真の信心をさせて頂くと言う事は、何時も聞きます。何時も話してもおります。
 お互いが真の道にあるのですから、真の人を目指さなければいけません。ね、面よは人間の面よしとるけれども、心は人面獣心という様なね、まぁ恐ろしいような心があったり、汚い心があったり、それこそ犬猫にもおとるような心の、が私共の心の中にあることを気付かせてもらって、それに取り組んで進んで行くと言う事が、真の人を目指す事だと思うんです。
 人間は、生まれてきた時にもうすでに、神の姓を頂いておるんですけれども、その神の姓が何時の間にか、ね、言うならば姓が変ってしまう。汚れに汚れ、言うならば汚れに汚れて、ね、例えばこの着物の生地、生地類でもそうでしょうが。汚れに汚れて、それを洗濯もせずにほっておきますと、姓が変るでしょう。びりびり破れるようになるでしょう。あ、姓が変るのです。人間はその我情我欲のために姓が変ってしょう、言うならば有り難い姓に変るのではなくて、ね、それこそびりびり破れるような姓にも成り果ててしもうて終っていく人が、どれほど多い事か分かりません。
 その中に、合楽に御神縁を頂き、信心に縁を頂いて、信心の稽古をさせて頂くのですから、この姓がです、ね、神様に頂いておるそのままの神姓、神の姓がそのまま、神としての、値打ちをいわゆる万物は、ば、あー、万物の霊長としての値打ちを値打ち足らしめる、信心の稽古でなからなければいけない。
 おかげを受けたから、姓が変ると言う事ではない。ね、心を見極め、心を清め、心を日々の改まりの上に、精進させて頂いて姓が変ってくる。姓が変ってくるから、見る事聞く事全てが変ってくる。
 今までは腹が立っておった事が有り難いとお礼が言えれるようになり。難儀と思うておったけれども、神愛として合掌して受けて行く事が出来る、というように姓が変って来る。ね、この生き方を、いよいよ身に付けていかなければならない。
 私は、今日はその霊祭を横から拝ませて頂いて、ははー、遺族の者がです、ね、御霊様の言うなら、帰幽日帰幽日に、言うなら真心込めて、言うならば御霊様へ仕えると言う事その事が、天地金乃神のお喜びになる。
 さきほども、戎浦先生がもうしておりましたように、例えば先月からあちらの、御霊様のお祭りが、あー、ございました。が、その、ね、これは又、ね、神様が喜んで頂くような御霊のお祭りをしたい。親先生に喜んで頂くような御霊のお祭りをしたい、もうこれならば、絶対御霊様が助からないはずがないですね。ね、ただ御霊だけが喜ぶようにと、御霊の好きな物をいっぱいお供えしたからというて、御霊が楽になるのじゃぁない。ね、その真心こそ、尊いのだけれども、信心させて頂く者は何をするにも、信心になれよと仰る。
 ましては先祖のお祭りをさせて頂くというのですから、いよいよ、ね、神、日頃頂いておる信心に物言わせての霊祭という事になってくる。そこに御霊様がね、言うならば御霊様らしゅう成っていかれるのです。人間が本当の人間らしゅうという事は、真の人間になって行くということなんです。人間が人間らしゅうなっていくという事を、教えられるのが信心の教えである。と同時にです、今日私は始めて、頂きました御霊が御霊らしゅうなる。
 ね、もうしんや仏様、御道の信心をさせて頂いたのが、死んだらもう、死んだら御霊様というわけにはいかんのです。え、そのためにも私共がいよいよ人間らしい、私共にならせて頂く精進。いわゆる真の人を目指しての信心という事になります。でなからなければね、信心が有り難いとか楽しいとかという事にはなりません。そりゃおかげを受けて自分の、お、思い又は思い以上におかげを頂いて行きますと、やはり有難いんですけれども、その変わりその反対な事になると、寂しかったり、悲しかったり、これほど信心するのにという事になる、そういう信心ではいけないという事。
 ね、私は、思うんですけれどもね、ん、お互い信心をさせて頂くならばね、やはりどういう場合であってもそれを真で受けて行く、という信心。ね、貫かせて頂くという信心。 今、あのー、あー、何日おきにか、ここの花をいけて下さる方があります。えー、本当に私の気分に合うた花を入れられる事があるかと思うと、おー、そうではない時もある。ね、例えば客殿なら客殿にお花を入れてある、なるほど花はよう入れてあるんだけれども、器がその、花器が気にいらん。ね、何処でもあるといったような、例えば客殿ですから、その花器その物も、やはりその客殿につりおうた花器に、しかもそこに、お花を入れてあるというであってつりあうのです。
 花が見事にいけてある。花器はもう何処であんでんある、といったようなもんじゃいかん。もうあそこには、もうそれこそ、えー、素晴らしい値打ちのものばっかりが、調度品でも置いてある。ですから、その花もだけれども、その花を入れてある器も又、はー、素晴らしい器だな、素晴らしい花器だな、と言うような花器がいる、いくらでもあるのだから、そういうのを、い、に入れて初めていく。
 もうこの頃から、そ、それが気が付いているから、言おうかな、言おうかなとこう思うんです。けれども、言うたらもう、あー、私達のは先生から気に入んなさんから、もうんなら私は、もうこ、あー、止めたと言うような事があってはならん、と思うから、まぁ私それを祈りに祈って、何時かは言おう、とこういう風に思っておるわけですけれども、そういう時に皆さんならどうします。
 先生がね、あっこれは間違っているじゃないか、そりゃいけないよ、と言われて、あっそうですね、と私は素直にですね、そうですねと、そして一段とそれを分からせて頂く事を有難いと心得ていくような、信心にならなければ信心は進みませんです。
 何時ーも先生から機嫌(取られたら?)いやー今度、花は良かったばいち、悪かったっちゃ良かったばい、ち言われな気が済まんというような事ではいけない。これは花だ、花の事だけじゃないです。信心がそうです。ね。
 もうむしろです、ね、いくら真心を込めたと思うても真心が足らんと言われる。いくら熱心に一生懸命と思うても、まだ一生懸命が足らんと言われる。どこが足りんのだろう。どこが間違っておるのだろう。と、いよいよそれを極めて行くというような、言うならば根性がね、信心にはいるんです。
 真の信心を目指すという事はそう言う事。でなかったら信心は進みましません。ね、間違うておっても、それを、おー、まぁ大目に見てもらうと言ったようなものではなくて、ね、それを例えば(ししん?)はね、たえずそういう、言うならば教導というか、ね、それこそ親心ですから、這えば立て、立てば歩めの親心が、様々な上に現れてくるんです。 要約歩きなれとったら、もう歩けと言う、そんな難しい、それが親心だからなのです。ですから、親心が分かっての信心でなららないと、そういうような事になって来る。ようやく信心が進んで来た。ようやく信心が分かって来た。ね、だからどのくらい分かっただろうかと、試さなければならない神様の働きが起こって来る。ね、そこを一段一段、あっそうですか、とそれを素直に受けて、そこから精進していく信心がいるのです。
 三代金光様のお言葉の中に「日に日にがさら」と教えられます。「日に日にがさら」という事はどういう事なんだろう。
 私は思いますのに、「日に日にさら」と言うのは、日に日に新たな喜びを、と言う事思うんです。ね、だからもう昨日のあの喜びが今日までも通用するという事はない。昨日の喜びは昨日の喜びで、今日はもう今日の喜びでなからなければいけない。例えば一部でも一厘でもそれが育っておらなければ、「日に日にさら」という事は言えないと思うんです。「日に日にさら」の信心を求める。
 御霊様でも、ね、いうなら御霊らしゅうなっていく事を、御霊の喜びとなさるであろう。私共も又、人間らしい生き方。いよいよ真の人を目指させてもらう。ね、だから言うなら、真の信心が分かって来る。真の信心が分かって来るから、真のおかげがとものうて来る。私共が真の信心を目指させてもらうと、今申しますよう、どういう例えばお試しを受けましても、どういう風に言われましても、ね、そこからの信心が進んで行くのです。どうでしょうか。ね、自分の信心を確かめ確かめして、信心は進めて行かなければいけません。
 昨日は田主丸の、おーむつやさんの所の謝恩祭が、あ、恒例のお祭りです。お母さん達がおられる頃からもう何十年続いておるお祭りです。もううかつな事ですけれども、昨日は私共の結婚三十、三十八年でしたか(笑い)の、を結婚記念日が、あー、6月22日なんです。今朝の御理解の中に聞いて頂いたんですけどもね、年々歳々、私のその、おー、丁度むつやさんの、お宅祭りに私共の日がその日になりますから、あそこでそのお祝いをして頂くような感じ。何時もこうケーキがすえてある。それがね、年々歳々大きくなっていく事が嬉しいという話を今朝からさせてもらいました。それは何を意味するのだろう。
 ね、去年は千円のケーキだった、今年は二千円のケーキあだった。来年は三千円のケーキだと言うようにですね、いわいる、むつやが大きくなっていっておるという事を私は嬉しいと思うたんです。
 ね、まぁ私は、石井信次郎さんですね、の御信心を、んー、まぁどうというわけでもないですけれども、ね、今日の御理解ではないですけども、何時も叩かれどうしと言う感じです。まぁあれだけのお店をしときゃ、様々な人間関係もあるし、商売ふしんの時もあるし、ね、色々ありますけれども、もうどういう問題であっても私は信次郎さんに、もう何十年間というでしょうかね、えー、石井さんが、あー、亡くな、あー、お母さん達が亡くなられて、そしてまだ二十いくつの、おー、言うなら青年社長としてあのお店を切り回すようにならせて頂いてからですから、もう十数年になりますでしょうか。
 ね、どんな場合であっても、石井さんあんたがね、新次郎さんあんたが大きくなりゆる他んなかばい。ね、その内容ば見てご覧、ってもう自分が汚いから、その問題が問題になるのじゃ。本気で美しゅうなろうというたら問題はその場で解決するよ。自分がいよいよ豊かになり、大きくなると思うたら、その場で解決するでしょう。
 もうこれは私は、石井信さんに言い続けてくる事です。私これが言われれるようになったら、信心は出来んでもおかげは頂くし、おかげ頂くと思うですね。まぁ時には、もうそれこそここをけって立つごたる思いをする時もあると思うんです。ね、今度だけは私が悪かっちゃない、とこう言うような時もあろうと思うんです、けれどもねよくよく、言うならば教えの鏡を前に立てさせて頂くと、なるほど私が小さいから、私が汚いから、という事になるのですから。
 ね、そこでまぁ曲がりなりにも、そこを辛抱し黙って治める。本当になるほど自分がっと言う事に気が付かせて頂いて、一部づつでも一厘づつでも大きくなっていく、豊かになっていく事を精進して行く。ね、それが有難いと分からせて頂くようになったら、力がよ、お徳だよというわけなんです。
 ね、もう先生がああいうからもう泣く泣くでも辛抱しいしいに、もう本当に堪えとる、という間はおかげは頂いていっても、大きくはなってもそれは言うならばお徳とか力という事にならない。ね、怖いと思うておった事はいよいよ信心度胸をつくって下さろうとする神様の働きでだった。
 ね、もう信心の世界にはこまったもなからなければ、(善とに?)怖いものもない。あるものは一切神愛だと極められたところからです。いよよお徳を頂いて行く信心という事になるのです。
 ね、今日は信心二筋道という、言うならばまぁ講題をつけるなら、そういう話を聞いて頂いたんですけれども、私達の信心がどちらの道を辿っておるのだろうか?
 もし例えば一生、ね、これは不思議がおかげが受けられるという事だけが、信心である、で終った、これはあの世にもっていけるうという事はありません。
 真の人を目指しておる事もいえません。御霊様でも、いうなら御霊らしゅうなっていくという事。人間、私共もいよいよ本当の人間、真の人間らしい、人間になられて頂くという事が、とりもなおさず生神を目指していっておる、精進の津j型であります。
 ね、その精進がです、楽しゅうなり、喜ばしゅうものになってくる、というところから、ね、生きるリズムというものが生まれてきて、り済みに乗った、信心生活が出来てきて始めて、いうなら、信心は有難いもの、楽しいもの。そして愉快なものとまで言われる事になって来ると思うんです。
 ね、皆さんおかげも頂く、そういう信心させて頂きながら、もう本当に神様の働きにはもうおそれいってしまうなー、というようなね、おかげは言わば付いて来るのですから、ね、それが信心と思わすにです、ね、これ自体が代わっていくという事に精進するという事が、真の信心であると分からせてもろうて、ね、いよいよ真の信心を目指させてもらう、真の人にならせてもらう。そして、あれもおかげ、これもおがげの中に住まわせてもらう。言うならば、有難い合楽世界に住まわせて頂く信心。それを楽しみの、信心。ね、それに共のうてくるおかげの喜び。
 ね、とっても信心の、そういう喜びが日に日にさらに、ね、それが育っていくという事を、んー、楽しみに信心させて頂くというおかげを頂きたい。